死は遠く、そして近く、遠い(渡辺松男『雨る』)

二度目の通読になった。「雨る」と書いて「ふる」と読む。良い。

 

元々渡辺松男で知っていたのはこの歌。

ひまはりの種テーブルにあふれさせまぶしいぢやないかきみは癌なのに(『蝶』)

『雨る』は私が初めて読んだ渡辺松男の歌集で、そのあとに絶版ゆえ高値になっていた『きなげつの魚』を古本で手に入れ、句集『隕石』もたしかこれまた古本で買った。『隕石』はまだ読めていない。

 

歌集を精読するのは、小説よりも難しいのではないかと思う。歌集はストーリーがあるのかないのかわからない(少なくとも私にとっては)。一応、連作という歌が集まった形式はあり、歌の配置などによって物語や流れは生まれてくる場合もあるけれど、一生懸命になって物語性を見出すものではないと思っている。だから歌集を批評するというのはかなり骨が折れる(はず)。ここでは批評ほど大層なことは書かない。私の感じたことを感じたままに書く。

 

1.死の遠近

個人的な好みとして、「死」を歌うものに惹かれるところが私にはある。渡辺松男は、長年連れ添った配偶者を癌で亡くし、その後自らは難病とされるALS(筋萎縮性側索硬化症に罹った。『きなげつの魚』では、配偶者を亡くした後の初めての歌集で、愛する人を失った悲しみが歌の端々に現れている。『雨る』も生きること、死ぬことについて歌ったものが目につく。

きみ逝きてわれは百歳年とれど生きてゐるかぎりきみにとどかぬ(「噴水」)

呼ぶたびにどんどん遠くなる君の一度だけ振りむきし瞬間(「死魚」)

死の遠さを感じさせる歌。時間は否応なしに進み流れ続ける。私が生きれば生きるほど、過去は遠くなる。つまり《きみ》が居た時間、《きみ》と居た自分自身も遠くなってゆく。

たいせつなこと過ぎさりてゆく方を尾とかんじ尾をふりかへりみつ(「槍」)

昨日のことのように覚えている過去もあれば、もうずっと昔のことのような、もっと言うと、自分自身のことなのに誰かが撮った映画のように思える過去もある。その違いに特に意味はない。どうだっていいことの方がいやによく覚えていたりする。むしろ、どうだっていいことだからこそ、忘れてもいいようなことだからこそ、「忘れないでいたい」という気持ちが起こらないゆえに、昨日のように思い出せるのかもしれない。翻って、二度と会えない人を思うとき、もう帰ってこない日々が、時間という距離をもって自分から引き剝がされていくことを感じざるを得ない。どんどん遠くなって、見えなくなってしまいそうなくらい。

 

死はいかが死はいかがとぞいふこゑす冬野にまんじゆしやげの葉ひそみ(「連鎖」)

まんじゆ沙華馬力をあげて咲きにけりたつたいつかい死なば亡きひと(「帽子」)

と言いながら、死はやはり近い。誰にでも唯一等しく存在するものは「死」のみだ、というのはたしかクルアーンにも同じようなことが書いてあった。

第4章 婦人 80節  汝らがどのような処に居たとて結局、死は汝らに追いついてしまう。どれほど高い楼観にひそんでみても甲斐はない。(訳:井筒俊彦

 

生と死に静かに対峙する歌人は、死をあっけなくも歌う。

飛行機は芯までひかり離陸せり行つちやつたものはいつも冷たい(「芯」)

たんぽぽのわた毛ふはりと浮きあがりおもしろきほど人がみな死ぬ(「琴」)

「行つちやつた」ものは飛行機なのだけれど、「逝つちやつた」ということなのだろう。たんぽぽのわた毛が風を受けて飛んでいくのだって、あのわた毛すべてが地面に根を張って次の花を咲かせるとは思えない(実際どうなんだろう)。死ぬわた毛も多いだろう。歌人にとっては、人はみな死ぬという当然のこともなんだか「おもしろき」ように感じられる。

 

一生はいつしゆんながれ星なれどいつしゅんとふはわがものならず(「連鎖」)

「自分のものである」と言えるものは何もないのかもしれない。身体だって結局は入れ物でしかない。生まれることも選べないし、自殺しない限り死ぬタイミングだって選べない。そういう意味では、自分の生も自分のものとは言えないのだろう。

これを読んで思い出した歌も引用しておく。

借りもののからだのことを打ち明けてあなたはついに氷上の星/笹井宏之

 

2.さみしさとやさしさ

などかくも君なき真夜は急激に家ぢゆうの灯をともしてまはる(「渡海」)

たへきれぬ孤どくはあまたなる場所にわれゐて同時に大太鼓打つ(「椅子」)

人はひとりで生まれてきてひとりで死んでゆく。なのに孤独は時として私たちに襲いかかる。耐えきれぬ孤独に、家人は「家ぢゆうの灯をともしてまは」ったり、「大太鼓を打」ったりする。

 

みづからの広さに耐へてゐる空のこぼすひとつの涙か鷹は(「みづ」)

ここで空の涙を雨とせずに鷹としたところに、ため息が出る(鷹? そこで鷹を出すのか……なんやそれ……。かっこよすぎるやろ……こんなん出されたらもうたまらんね! ……失礼、感情が乱れてしまった)。

 

ひとをつよくおもふとき気球うかびたりつよくみあげてをればおちない(「槍」)

初句6音、二句目が8音と、畳みかけるような勢いが「ひとをつよくおもふ」ことを感じさせる。「みあげれをればおちない」なんてわけないのに。

 

一首、「やさしさ」という言葉が出てくる歌がある。

あかるいところ選びて雨のふるがみゆ やさしさつてほんのすこしの加減(「ゆび」)

 

3.その他(書きたいから書く)

すれちがひたり くらつとしたる香水に鼻腔のなかのビル群くづる(「貴石」)

渡辺松男の描写にはっとするときはこういう歌。「鼻腔のなかのビル群」とは鼻毛を示しているとも言えるかもしれないが、私には鼻の奥に広がる都市が見える。ビル群が崩れるほどの強烈な(しかし一瞬の風のような)においが歌集の頁から香ってくるよう。

 

残照によばれたる葉はうらがへりとりかへしつかぬこともかがやく(「鈴」)

こころとふ閉ぢこめてみてもたいせつないちばん奥に浮くひつじ雲(「鱗」)

かけがへのなさをあらそひあふなんてさうしてみんななくなるなんて(「カルト」)

好きな歌たち。渡辺松男の表現ってかっこよくて。真似できそうでできない。この情景からそんなことを感じ取るのか……と個人的に衝撃を受ける歌が多い。そんな歌を読めるというのは幸福なことだなと思う。

 

 

疲れてきたのでこの辺でおしまい。

 

 

はじめに

読書をしてもそれをアウトプットする機会がほとんどなかった。いや、「機会がない」というのは正しくない。読んだら読みっぱなしになることがほとんどだった。本の冊数が全てではないと自分に言い聞かせながら、どこか急いで読むきらいがなかったかと言うと嘘になる。事実、新刊本も面白そうなものがどんどん出てくるし、既刊のものだって書店やインターネットをうろついていると山のように見つけてしまう。早く読まないと人生が終わってしまう、早く手に入れないといつ絶版になるかわからない、という焦燥感は常に離れない。

 

しかしながら、そうして急いで読んだ本は、強烈な印象がない限り、「そういえばこんな本も読んだな」という程度の記憶、そこに書かれた文字を読んだというだけの事実しか残らない。もちろん、感銘を受けた本だってある。心に残った言葉だってある。だけれども、稚拙な言葉だとしても自分の言葉で感じたことを、ほんの少しで良いから残すべきだと思った。それも含めて本を読むということだと。

 

すべての読んだ本を記録することはできなくとも、これは残したいと思ったものだけでも、何かしら書きたい。続くかわからないけれど、やってみないとわからない。嫌々やっては意味がないから、できるときに気楽にやるというスタンスでやってみたい。ということで、始めてみる。